私の胆汁酸関連の主な業績

猪川 嗣朗

元鳥取大学医学部附属ステロイド医学研究施設化学部門教授・施設長
元鳥取大学医学部臨床検査医学講座教授
元鳥取大学医学部附属病院検査部長
鳥取大学名誉教授


 この度の胆汁酸研究会からの日本の胆汁酸研究に関する研究発展の学術的書類の編集では、これまで書面には表れていない歴史的経過を現代風にまとめたい。この分野に関心のある若い人達、特に研究者に、文献などによる情報源の少ない日本で行われた研究のありの侭を知ってもらい、先達の様子や知識の流れや発展を温故知新となして更なるこの分野の発展に寄与する機会が生まれることを願い筆を執る。


 日本の胆汁酸、ステロイド分野の先駆者であり、晩年は岡山大学学長を勤められた清水多栄先生の流れを汲む恩師山崎三省先生の弟子である私は、山崎派の一人である。先生は第二次世界大戦での日本の敗戦当時満州大学生化学の教授であり、その後も現地の医療レベルの維持と後継者の育成のため抑留されていたが、ようやく帰国となった。それまでの戦時に設立された米子医学専門学校から昭和23年2月に山陰では初めての大学に昇格した米子医科大学(当時の入学生は40名)の生化学講座教授となられ、貧弱な研究体制下で研究者、研究材料も極めて乏しい中、その業務である医学教育の他、研究の発展に邁進された。もちろん研究費も研究資材もない時代だったので、先生は「これまでやって来た得意の分野を活用するしか当面手だてはない」と決意され、産業廃棄物としての屠殺動物の牛や豚の胆汁を無料で頂き、そこから胆汁酸を塩析してコール酸やヒオデオキシコール酸の原料を得る仕事から始めなければならなかった。この原料作りは、その後商品としてコール酸が販売されるような時代となったが、私が生化学講座の大学院生に入学した昭和39(1964)年以後もしばらくの間続いた。しかしこの一見地味と思われた経験は、その後の教室における新胆汁酸の合成に大きな示唆を与え、技術の向上にも貢献することとなった。山崎先生は米子医科大学の学長を一時勤められ、昭和26年から鳥取大学医学部に昇格した後、私の大学院生当時には医学部長であり、多忙を極めていた。その為、日々の直接の指導はかなわず、与えられたテーマは新代謝経路の中間代謝物として想定される新胆汁酸の合成、しかも14C-標識したものなど、聴診器しか持ったことのないものにとっては途方もない課題であった。そのため付け焼刃であれ多少なりとも有機合成に関する知識を学ばなければならいことになった。当時の直接の指導者は教室の講師であったが、内科から来た医師であったのでこの方面の指導は余りなく、多少指導を受けたのは当大学の薬剤部から来ていた助手の仲田富士徳先生であった。このような環境であったので、恩師の山崎先生から与えられたテーマの研究で使用すべき14C-標識胆汁酸の生合成は、繰り返し試みたにも関わらずなかなか満足すべき特性を持つ合成品を得ることには至らなかった。それでもとその当時のステロイドの生合成などの成書で山崎三省先生の米国留学先であったLOUIS F. FIESER and MARY FIESER. STEROIDS by Maruzen Asian Edition Chapter 14. BILE ACIDS AND ALCOHOLS p. 421-443(昭和38年9月30日、第4刷発行 翻刻発行所 丸善株式会社)を片手にほぼ独学で合成方法を検討し実験したが、毎日が実に悪戦苦闘であった。今から思えば当時はそんな状態が大学院生にとっては一般的なものであったのかも知れない。


 そうこうしている内にどうしたことか山崎先生から「君、良い機会だから大阪大学附属蛋白質研究所に内地留学して3β-hydorxysteroid dehydrogenaseについて研究して来てくれないか」との勧めがあった。当時の大学教授は飛ぶ鳥をも落とすぐらいの勢いがあり、言われるままに見知らぬ大阪大学蛋白質研究所に内地留学した。最初は須田教授の部門だと思っていたら、なんと暫くしたらグラミシジンの大家の高橋教授の部門への移動であった。ここでは毎日研究材料となるグラミシジン生成菌の大量培養であった。幸いそこには和歌山大学医学部卒の先輩に当たる伊藤啓氏がいて、何かと身近な話が出来たのは幸運であった。そしてその後もお付き合いが続いている。しかしながら、研究対象として与えられた3β-hydorxysteroid dehydrogenaseはマイクロソームにあり、その中でステロイドの代謝酵素の研究、特にマイクロソーム系の酵素の精製など、世界でもやり始められたばかりの難度の高い仕事で、とても内地留学の短期間で素人の私にそう簡単に出来る仕事ではなかった。しかし、この時代に得た友人や研究に対する姿勢、教授が帰宅するまで原則として自分も帰らないという態度、そして情熱は、その後の研究生活において、未知の分野をよく理解し建設的に取り組む上で大いに参考となり、私の心の大きな支えとなった。若い頃に国内外の他大学で研究生活を通じて修行したことは、たとえ直接的な成果が得られなかったとしても、とても意義深いものだったと強く感じた。


 当初の目的も充分果たせずに再び恩師のもとに帰ったが、責められることもなく温かく迎えて頂いたことには大いに感謝した。その後、そのお蔭か、指示されていた念願の14C-標識の胆汁酸を何とか合成でき、恩師の研究テーマの発展支援が始まった。山崎先生はご自身の恩師である清水多栄先生の指導の下、以前から提唱の新しい胆汁酸生合成経路解明のための研究に、工夫を凝らしながら精力を捧げていた。山崎先生は、1960年頃に放射線標識されたコレステロールの側鎖がまず酸化、切断されてから胆汁酸になる経路が存在することがBergströmらのスウェーデン学派により証明されたことに、称賛と共に残念さを強く感じておられたようであった。


 しかし先生は長年の胆汁酸生合成の諸経験から、生体で側鎖が最初に切断され3β-OH,Δ5のコレステロール核を持つ胆汁酸から、日常見かける胆汁酸も作られるのではないかとかなり前から考えておられたようである。それを証明をすべく、私にコレステロール核に7α-OHが導入された 3β,7α-dihydroxychol-5-enoic acid-24-14Cやその前駆体の3β-hydroxychol-5-enoic acid-24-14C, 3-oxo-7α-hydroxychol-4-enoic acid-24-14Cの合成を指示され、それを用いた動物実験を行った。その成果はYonago Acta medica 5: 21, 1971、J. Biochem. 71: 579-587, 1972、J. Biochem. 82: 1093-1102, 1977に報告され、胆汁酸のYsmasaki Pathwayの存在を証明することに貢献した。この経路はMitropoulos et al (Biochem. J. 103: 472-479, 1967)らによっても提唱されているが、Javitt教授らもこの代謝経路をYamasaki Pathwayと呼んで支持しており、胎児や小児、また胆汁酸代謝障害のある成人にも見られるなど、この分野での研究の発展に大きく貢献した。これら一連の成果は、鳥取大学の定年退職後に教授として転出された川崎医科大学生化学教室にてYamasaki K et al. Kawasaki Med. J. 4: 224-264, 1978に報告されている。またこれらの生化学教室の研究内容や経時的情報については、鳥取大学医学部生化学教室開講45周年記念誌として発行されたCommemoration(平成3年5月1日)に報告されている。


 その後小生は、日本の胆汁酸研究者である清水多栄教授およびその弟子である広島大学医学部生化学教室の数野太郎教授とも親交の深い、英国ロンドン大学ガイズ病院生化学教室において、胆汁酸研究で世界的に著名なG.A.D. Haslewood教授(参照:没後50周年 清水多栄先生、岡山大学医学部清水会、2007年4月発行、薬学部の大森晋爾教授編集、Nature 181, 880, 1958)のもとで、2年間の留学生活を送った。そして、胆汁酸の生物系統樹に関する研究と、新しい胆汁酸の存在に関する研究について、それぞれBiochem. J. 152(2): 343–350, 1977とBiochem. J. 171(2): 409–412, 1978に発表した後、帰国した。


 その後1979年に縁あって、当時ステロイドに関する研究では世界的に知られていた鳥取大学医学部附属ステロイド医学研究施設化学部門の教授に、同門生の臼井敏明教授の後任として就任した。この研究施設の設立は恩師山崎教授の念願でもあり、単に胆汁酸のみならずステロイドホルモンや他のステロイドの医学的方面からの研究を主眼としており、当時から山崎教授は「単なるステロイド研究施設でなくステロイド医学研究施設であることを認識して成果をあげて欲しい」と常々言われており、私どももそれに呼応することを念じ、臨床の先生と一緒に研究をしていた。従って、胆汁酸と臨床と言う面での研究がなされていた。


 また山崎先生は、常日頃から「胆汁酸は血中に一定の割合で存在する。この事は単に脂質の吸収に貢献するだけではなく、何かほかにもっと重要な役をしているに違いない。その役割を知りたい」と言われていた。あれから50年ばかり時代が流れているが、今日の胆汁酸研究の成果をみて誠に的を射た先見性があった言葉であったことへの思いを強くしている。優れた研究者であったのみならず、科学者として、また教育者としての素養もあったことが伺い知れる。本来、山崎先生は医師であり、胆汁酸の生体における役割と病態との関連、その意義には強い関心を持っておられた。その為、安全性を念頭に、胆汁酸投与による脂質低下への効果などをいち早く試みている(米子医学雑誌 10 (3): 809-816, 1959)。


 幸い化学部門には最新式の蛍光分析器があり、既にステロイドホルモンの生体内の動向を臨床と共同して研究していたので、我が生化学教室で最初に行われたのは、酵素による胆汁酸測定の高感度化を図る測定法の開発とその臨床応用であった。生化学教室で開発されたこの方法は、第2内科からの大学院生の岩田毅氏が、生化学教室の助教授であった清水久太郎先生のアドバイスのもと山崎先生の指導を受けて、最初は、岩田毅志、胆汁酸殊に血中胆汁酸の酵素的定量法、米子医学雑誌 14:142 (1963) で、後にTsuyoshi Iwata and Kazumi Yamasaki. Enzymatic determination and thin-layer chromatography of bile acids in blood. J. Biochem. 56: 423, 1964.で発表した。しかし残念ながら、後者ではかなりの改良はされていたものの、著者の原法では使用血液量が多く、臨床応用には今ひとつであった。そこで、これまでステロイド医学研究施設化学部門で培ってきた高感度かつ実用的な蛍光酵素法をさらに改良し、これまでの研究で作成・蓄積してきた教室内の多数の胆汁酸標品と、ステロイド核の水酸基に特異的に作用する脱水素酵素を用いて、生体試料(特に糞便中の試料は3β体が多いが、これらも含めて)に含まれる幅広い胆汁酸の微量測定法を開発した(S. Ikawa and T. Mura. Enzymatic determination of bile acids. p.59-81, Daiichi Shiryo Printing Co. Ltd., 1983)。


 小児科や内科との共同研究において、臍帯血や新生児の生後の生理的胆汁酸動態や、各種病態における血中胆汁酸レベルや動態の研究、胆石溶解 剤としてのUDCAの投与後の動態や肝機能検査としての鑑別診断の意義などに大きく貢献することが出来た。また鳥取大学医学部附属ステロイド医学研究施設化学部門(1979-1993)では、古巣の生化教室と共同で木村宏二助手が、質量分析を使用した胆汁酸研究を行い、その業績は生化学教室の業績として報告されている。また徳島大学生化学教室市原明教授の下に武良哲雄助手が内地留学し、分析分野と多少異なった分野として、ラットの初代培養肝細胞における肝機能老化現象について研究し(脂質生化学研究 26: 29‐32, 1984)、氷温帯における胆汁酸生合成と肝機能の研究も初期的研究ではあったが、当時培養肝細胞市販化の試みに大きく貢献した。小生の胆汁酸に関するこれらの研究業績の詳細は、鳥取大学医学部生化学教室(1966-1979)、同附属ステロイド医学研究施設化学部門(1979-1993)猪川嗣朗教授業績集Ⅰ, 1993 に記載されている。その後鳥取大学の機構改革で、この由緒ある誇りに感じていたステロイド医学研究施設は生命科学科の母体に改組され、その機会に小生は同大学医学部病態解析学講座臨床検査医学分野に移籍となったが、そこでの胆汁酸や肝機能に関する業績(1993-2004)は、猪川嗣朗教授退官記念業績集(編集発行 鳥取大学医学部病態解析学講座臨床検査医学分野、鳥取大学医学部臨床検査医学講座同門会、鳥取大学医学部附属病院 検査部 平成16年 ㈲米子プリント社)に報告されている。


 紙面を終えるに当たって、恩師 山崎三省先生の「日本において伝統ある胆汁酸研究は、これで一段落と感じているとまた新しい関連分野が現れ研究のテーマとなり、その研究会はまた繫がることになり、研究者が少ないこともあってお互い親しく交流出来るんだよ。不思議な会だね」との言葉が懐かしく預言者の言葉の様に聞こえてくる。胆汁酸の生体での意義が吟味されながら益々、絶え間なくゆったりとした流れで楽しみながら発展して行くことを切に願うものである。