清水多栄先生・数野太郎先生の追憶とコレステロールの胆汁酸およびビタミンDへの変換

奥田九一郎


第1章 清水多栄先生と数野太郎先生の思い出

 1957年、清水多栄(とみひで)岡山大学学長(1920年ドイツ国のWieland教授ー1915年に牛胆汁よりコール酸を発見し1927年にノーベル化学賞を受けたドイツの化学者ーの研究室に留学後、岡山医科大学の生化学教室教授として胆汁酸の研究をされ、昭和13年に「胆汁酸の化学的および生理学的研究」に対して帝国学士院より学士院賞を受けられた日本における胆汁酸研究の創始者)は世界一周旅行に出かけられました。その時、LondonでGuy's Hospital Medical SchoolのHaslewood 教授(胆汁酸研究の権威)に会われたそうであります。当時スウェーデンのLund大学の教授であったSune Bergström(1982年プロスタグランジンの発見でノーベル医学生理学賞受賞、以下Suneと略させていただきます)が「Professor Shimizu が来るのならdiscussion したい」といって奥様同伴でLondonに行かれたそうであります。後年筆者がamanuensとしてカロリンスカ研究所に滞在中にSuneの家に招かれたことがありますが、そのとき奥様が「Professor Shimizu は英会話の方は苦手のようでしたが、arrangementが大変巧みで、Londonではいろいろ御馳走になりました」と言っておられました。清水先生はその時、数野教授のSwedenカロリンスカ研究所への留学を頼まれたそうであります。


 話は変わりますが、1989年に東京大学医学部生化学教室の山川教授に「日本生化学会の機関誌である雑誌「生化学」に「人、仕事と意見: 胆汁酸研究一筋の道」という特集記事(生化学 61: 543-550, 1986)を載せたいので数野広島大学名誉教授を囲んで座談会を開き、そのルポを送って欲しいと頼まれました。それで数野先生を囲み、数野先生の弟子たち(広島大学医学部薬学科の穂下教授、愛知県立女子看護短期大学の増井教授および筆者(広島大学歯学部口腔生化学教室主宰)の4人が座談会を開きました。筆者はその会の司会を務めました。その時の数野先生の話によりますと「清水先生が外国から帰ってこられてから、私に『スウェーデンに行け』と言うんじゃ」と言っておられました。その時数野先生は51歳だったそうですが、それまで英語の会話なんかやったことがなかったから、「リンガホンで勉強をしたり、ABCC(Atomic Bomb Causality Commission)の米人医師に英会話を教えてもらってから行ったんだ」というお話でした。増井博士は「プロスタグランジンの生理作用は胆汁酸と全く異なるが、両者の化学的性質は共通しているから、胆汁酸で確立した液体クロマトグラフィーの技術がプロスタグランジンの分離に応用できたのですね」と話しておられました。またこのときHaslewood教授に話が及んだ時、数野教授は「彼は立派な英国紳士だよ、スウェーデンから帰国の途中Londonの研究室に彼を訪ね、お宅に泊めてもらったことを思い出すね」と言っておられました。


第2章 米国及びスウェーデン国への留学

 数野教授がカロリンスカ研究所におられた頃、米国からMG Horning博士(米国Texas州 Houston市のBaylor大学のLipid Research Center長であるEC Horning教授夫人)が同じ研究室に留学されていたそうであります。数野教授は帰国後筆者をBaylor大学のLipid Research Centerに留学するようお世話下さいました。EC Horning 博士はガスクロマトグラフイーの世界的権威であります。【閑話休題:質量分析器の発明者がノーベル物理学賞を受けられた時、その受賞講演を聞かれたHammarsten博士(胆汁酸のステロイド核を証明する為のHammarsten反応の発見者で、当時Chemicumカロリンスカ研究所、研究所といっても普通の医学部の教授)が、これはいずれ化学物質の分離定量にも応用されると思って研究室に質量分析器を購入されたのが1905年で、それからカロリンスカ研究所では、有機化合物の質量分析の技術と知識を集積して来たものと思われます。その後Ryhagyという人が出てきて質量分析器付きガスクロマトグラフィー(GC-MS)を発明したそうであります。Bengt Samuelsson教授(1982年Suneと共にノーベル医学生理学賞受賞)はプロスタグランジンの構造決定にこれらの知識と技術を十二分に駆使したことでしょう】 筆者が留学した時2台目のGC-MSがEC Horning 博士により購入され、丁度筆者がHoustonにいるとき飛行機で搬送されて来ました。それだけではなく、その器械を運転するための技術者も奥さん同伴で来られました。Horning教授に「貴方は天然胆汁酸に興味があるようだからlizard(晰暢の一種)の胆汁酸を調べてみなさい」と言われ、たった一匹の晰暢から抽出した胆汁アルコールの構造をGC-MSを使って明らかにすることが出来ました。このときanhydrocyprinol が比較の為に必要になったのですが、この物質は市販されていない為Haslewood教授にお願いして送って戴きました。余談ですがHaslewood教授にはNew Yorkで開かれた国際会議の折、増井博士と共にお目にかかり歓談しました。


 筆者がBaylor大学にいた頃、Suneは同大学のBoard memberの一人として時々Houstonに来ておられました。筆者が米国における一年間の留学を終えて帰国する前にスウェーデンに留学したい旨をHorning博士に話しますと「近くBergström教授が来られるから直接話してみなさい」と言われました。そして最初にSune Bergstrӧm教授にお逢いした時、筆者がスウェーデンに留学したい旨申し上げますと、彼は「私には3人の弟子がいる:Jan Sjövall、Bengt Samuelsson、およびHenry Danielssonだ。君は誰と一緒に研究したいか?」と訊かれました。そこで筆者は即座にHenry Danielssonと答えました。(3人のうち彼だけがいわゆる「胆汁酸屋」であったからであります。米国留学を終えて、スウェーデンのカロリンスカ研究所に行き、そこでHenryと3α,7α,12α-triol-26-al(THAL)の化学合成を行うことになりました。ところがそれから間もなくHenryは、「急いでプロスタグランジンの作用機構の研究をしなければならなくなったから、後は君一人でやってくれ」と言われました。その後筆者は単独でその合成を完成させなければなりませんでした(Okuda K and Danielsson H. Acta Chem Scand 19:2160-2165,1965)。


 話は戻りますが、数野教授は筆者をHorning 教授に紹介してくださった時と相前後して、教室の増井博士(前述)には米国Pennsylvania大学医学部のY Staple教授のところへの留学を世話されました。その後博士はスウェーデンのカロリンスカ研究所にも留学されました。また、穂下博士(前述)がNew YorkのMosbach 教授の研究室に留学を希望する手紙を出された際に、同教授の申し込みの手紙に数野教授が推薦状を添付されたと伺っております。この師にしてこの弟子ありという事でしょうか? 清水先生や数野先生の学問のみならず弟子達に与えられた愛着を今更のように感じる次第であります。


 筆者がAdolf Windaus(1928年ステロールとビタミンの研究でノーベル化学賞受賞)賞を受けたとき、受賞講演の最初に清水先生の肖像写真を掲げ「筆者が清水先生の弟子であること」を世界中から集まった胆汁酸研究者に話しました。Adolf Windaus 賞へ推薦して下さったのは米国カリフォルニア大学のAlan F Hofmann教授でありました。また同賞の審査員長はGerok教授でありますが、他に6名の審査委員がおられました。その一人はLondon大学のH Dowling 教授であります。彼とHaslewood 教授との関係はよくわかりませんが、同じ大学のことだから何らかの関係があったのではないでしょうか?


 2004年にSetchell博士はAdolf Windaus賞を受賞しました。その時の受賞講演の中にCTX(cerebrotendinous xanthomatosis)のことが引用されています。CTXは最初米国で見つかった先天性の疾患であります。その疾患の本体を初めて明らかにされたのは前宮崎医科大学の瀬戸口教授等であります。清水先生には沢山の弟子がおられますが、その一人が九州大学医学部の三宅教授(外科)であります。その方のお弟子さんは秋田教授といって鹿児島大学の外科の教授であります。瀬戸口教授は秋田教授の弟子ですから、清水先生の曽孫弟子にあたられます。瀬戸口教授は筆者が広島大学医学部時代に広島に訪ねて来られました。その後筆者が歯学部に移った後、米国のSalen教授のところに留学されることになり、筆者の主宰していた生化学の教室に来られ、胆汁酸の分離精製の技術を何日か習得されました。その後瀬戸口博士はSalen教授の研究室に留学され、そこでCTXという不思議な遺伝子疾患患者に遭遇されました。この患者の胆汁や血液には異常なsterolが蓄積することが知られていたので、はじめこの患者はlanosterolの蓄積異常症ではないかと考えられていたようでありますが、瀬戸口博士らはそんなことには目もくれず本疾患の本体は胆汁酸の側鎖酸化異常によることを突き止められました(Setoguchi T, Salen G, Tint GS, et al. J Clin Invest 53: 1393-1401, 1974)。この発見は世界のステロイド研究者に大きなインパクトを与えました。Setchell博士は2014年にAdolf Windaus賞を受けておられますが、その講演に引用されている論文の中にSetoguchi T(宮崎医科大学大学第一外科教授)らの論文があります。CTXの患者は全身に黄色腫がみられるばかりでなく、脳の内部にも黄色腫が見られ、その出来る場所によっては認知症、脊髄不全麻痺、小脳性運動失調症に陥る危険もあるそうです。また脳の中にはコレステロールのみならず、多量のコレスタノールが見つかるところからコレステロールからコレスタノールへの変換の異常ではないかとも考えられていました。同博士は後に宮崎医科大学の第一外科講座を主宰されるようになりました。この教授の研究がいち早くRussel博士の先天性コレステロール代謝異常の分子生物学的研究に受け継がれ、彼(Russel博士)は2002年に Adolf Windaus賞を受けています。


コーダ

 「日本の胆汁酸研究の歴史」への寄稿のために本原稿を書かせて戴いて、今更のように清水先生の偉大さを感じています。先生に「生化学」の講義を受けたことはついこの間のように思えるのにもう70年近く経ってしまいました。清水先生は齢69歳で亡くなられました。そのすぐ後Haslewood教授が雑誌Natureにobituaryを載せています そこには"Pofessor Tayei Shimizu,who died suddenly on January 30,was well known as for the founder of the chief Japanese school on steroids and especially bile acids. He was a pupil of the Heinrich Wieland from 1920-1923,and again 1929 until 1931, and from him returned to Japan with an enthusiasm in the field which proved lifelong. 以下略"(Haslewood GAD. Prof. T. Shimizu. Nature 181:880,1958)と記されています。


 話は変わりますが、コレステロールから胆汁酸が作られることを初めて明らかにしたのは米国のK Bloch博士およびF Lynen博士(Wieland教授の女婿)らであります。そのためにはいろいろな酵素が使われますが、そのうちでも主体的な働きをしているのはP450群であります。岡山の清水先生がお亡くなりになった葬儀の折、岡山医科大学の生化学教室の助教授をしておられて、その後日本医大の生化学教室を主宰されるようになった上代先生が清水先生の棺を両手で抱えるようにして、語りかけるよう「先生どうしてこんなに早くなくなってしまわれたのですか?」と慟哭しながら弔辞を述べられる姿に子弟の縁はこんなにも深いものかと深い感動を覚えたこと今も忘れません。左藤了先生がKlingenbergの見つけた肝臓ミロソームに一酸化炭素の通気で、450nmに強い吸収を示す色素の本体がcytochromeであることを明らかにされたのは、上代先生からethyl isocyanideをもらって帰られテストされた結果から判断されたことを左藤先生ご本人から伺っています。筆者等はコレステロールから胆汁酸が生合成される反応が種々なP450によって触媒されることを明らかにしました。その結果、筆者は1992年にAdolf Windaus賞を受けました。その時に推薦演説をして下さったのはドイツのGerok教授であります。


 その時瀬戸口教授(当時 宮崎医科大学教授)にお願いして、岡山大学医学部の生化学教室の教授室に飾ってある清水先生の肖像写真をスライドにして送って戴きました。受賞講演に先立ち先生の御写真を一番に掲げ、筆者が先生の弟子であることを世界から集まった胆汁酸研究者の前で語らせていただきました。受賞講演の前にWindaus とWieland は良き友人であったことをFalk博士にお尋ねして確かめた上で以下の受賞講演を行いました。
Ladies and gentlemen,first I would like to thank Professor Gerok and the other members of the Windaus Prize committee for their decision to award me this year’s Windaus Prize. I also thank for inviting me to this fascinating Symposium on bile acids. Fig 1 is a portrait of Dr. Taei Shimizu,my boss‘s boss. He went to Munich,Germany,about 75 years ago and learnt about bile acid biochemistry from Professor Hein Wieland,who was a good friend of Professor Adolf Windaus. Professor Shimizu may have often met Professor Windaus. After he came back to Japan he opened his own department in Okayama city, which is 700 km west of Tokyo, and contributed much to bile acid biochemistry. For example he identified the structure of an unknown bile acid in bear as 3α, 7β-dihydroxycholanic acid, trivially called ursodeoxycholic acid about 70 years ago. As a student I was so fascinated by his lecture and research in the bile acid fields,that I decided to enter his laboratory as a graduate student. If he were alive today I believe he would be most pleased with my prize. 以下略(この原稿はGerok委員長が事前に校正して下さったものであります)